キンタイア半島は密造王国だった。
その豊富な大麦とピートでウィスキーの商業生産に移行した後も一大中心地となった。ウエストハイランド地方で石炭が出るのはここだけだった。
石炭はスチルの原料として使われ、強風から遮られた天然の港は蒸気船の停泊地になった。しかしこうした港は、一時こそ栄えたが、道路輸送が発展する時代を迎え、再び停留地になってしまう。
最盛期の1800年代の中頃、キャンベルタウンには、約30件の蒸留所があった。以後、その数は減る一方となる。
石炭は底をつき、流行は、香りの強いウエストウイスキーからスペイサイドのスムーズなものに移っていった。経済発展も古く小さな蒸留所にとっては、逆風となった。
おそらく、苦し紛れながら、一部のキャンベルタウン蒸留所は一種の自殺行為に走った。禁酒法時代(1919-1933)、アメリカ市場向けに密輸ウイスキーの供給所となってしまったのだ。これはもちろん量を確保するため質を犠牲にしたもの。
このためキャンベルタウンのウイスキーは、自国内においては粗悪であるとの評価にしばし苦しむこととなる。
第2次世界大戦後に生き残ったのはスプリングバンク、グレンスコシア、二つの蒸留所だけであった。
キャンベルタウンウイスキーの生産工程における特色の一つは、ピート処理を比較的軽めにすることにあり、この特色と、海に突き出た狭い半島上に蒸留所が存在することが、フレッシュで塩気を帯びた香りと味わいを生んでいる。