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Malt Night 5th 開催にあたって 1

Malt Night 5th まで、あと1週間を切りました。

第5回という節目でもあり、開催に先立って少し書かせていただこうと思います。

Malt Nightと名付けた、自らが主催する会を行おうと決心するには、幾つかの経験がありました。

まずは「2009年7月の有楽町キャンベルタウンロッホ10周年記念イベント」(記事1 2)。

この日のボトルラインナップはもちろん、そこに同席した皆さんが「飲んだ感想」を述べ合い、それが共有される時間・空間というものが素晴らしかったです。


この日を境に、ウイスキーを飲んだ「感想」を積極的に公開するようにしました。


その理由というのも、日本自体が「黙して語らず」の美学があるにしても、特にBARという空間はその傾向が顕著だと前々から思っていて、お酒を語るにしても非常に「抽象的」というか、その前提となる「価値観」というものを、見栄や体裁と混同してそこに置いているというか、私としては疑問を多く抱いていたのです。


例えば、マッカラン12年を飲んでいて、「昔のマッカランは美味かった」と会話する。お客は「そうですよね。10年前の。。。」と応える。


今でこそ酒が入ると思い出話が多くなるものだということに大した疑問もないのですが、1995年当時(飲み始めた頃)というのは、率直に「そりゃおかしいだろ。」と強く思いました。

BARの人が自ら、「昔のマッカランが美味しい」と話を振り、客がそれに応じて「自分もそう思う」と言う。どうもそれが若い自分には「悦に入っているように」しか見えない。

目の前には、会話の主題である「昔のマッカラン」はない。

そして「やまや」で2980円で売っている、当時の現行マッカラン12年を1杯千幾らで提供する。

これがいわゆる典型的なラベル酔いというか、中には「開けるつもりのない」、過去のボトルコレクションをバックバーに並べるBARがたくさんありました。(今もあると思いますが)


なんというか前提となる「共通の知識・体験・価値観・嗜好性」といったものがないと、恥ずかしい思いをするような空間というのか、店も客も価値観は「右へならえ」なくせに、それを褒め合い「悦」に入るという感じが猛烈に「くすぐったい」思いがしたのです。

言い換えると、BARというのがとても「ハイコンテクスト」な空間であったと。自ら何ら落ち度はなくても、その雰囲気に迎合しないと、なぜか恥をかいた気分になる。。。何なんだそれはと。


嫌ならやめればいいのですが、この「何とない悔しさ」にひかれてしまい、かれこれ20年弱。


まあ、全体としては大して変わりはなかったのかもしれません。

でも選択肢は確実に出来ました。

ラベル酔いを誘発しない、実物本位の飲み方という選択です。


少しずつブログ上でもシェアイベントをやったり、地元のBARにも自分のボトルを持って行って飲んでもらうようになりました。


(続く)

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